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産業技術年表
日本 佐賀藩、24ポンド鉄製大砲を鋳造。1850年にオランダの技術書をもとに初めて反射炉を築き、洋式大砲の鋳造を始める。以後、多くの大砲が鋳造される。
1851年|機械・生産システム

わが国で最初に反射炉をつくり工業炉として稼働させたたのは佐賀藩であった。この背景には、天領であった長崎の警備を佐賀藩が担当していたことがある。

長崎の出島は、江戸時代の唯一の外交窓口であり、海外からの情報や知識の入り口でもあった。幕末には、1804年にロシア国使節レサノフの来航、1808年のイギリス軍艦フェートン号の長崎港侵入などがあり、アヘン戦争のニュースが伝えられる中で、日本には外国船の鉄製の大砲に対抗できる兵器がないことを懸念した佐賀藩主鍋島直正は、老中阿部伊勢守に海防の要を献策する。たが、それが聞き入れられなかったために、藩が独自に長崎砲台の増設と大砲の設置という海防策を実施することにした。

当時財政破綻していた佐賀藩の藩主となった鍋島直正は、産業育成・交易促進などの財政改革や、藩校の拡充などの教育改革、役人削減や優秀な人材登用などの機構改革などを断行した人物である。「蘭癖大名」と呼ばれるほど海外の科学技術の導入にも積極的であった。

鍋島直正はまずオランダのヒュギューニン著『ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法』の翻訳を命じ、理論や仕組みについて、幕府直轄の理科学研究所的な役割を果たしていた江川塾の協力も得て研究を進めた。またそれにあわせて、「大銃製造方」という役所を城下の築地に置き、日本最初の洋式反射炉を完成させた。1850年のことである。反射炉内は高温になるために耐火レンガが必要であるが、この品質が悪いと、高温でレンガが熔けて、不純物として鉄に混じることになる。同時期に開発を試みた薩摩や水戸で反射炉が成功しなかったのは、レンガの質が悪かったからであった。佐賀藩では、地場産業である有田焼の技術が活用された。また、レンガ製作では瓦職人、反射炉の築造には左官などの在来技術が活用された。

完成した反射炉で試行錯誤を繰り返しながら、1年後の1851年に、7回目の鋳造で実用に耐えうる砲身を鋳出した。ヒュギューニンの著書では、この砲身に砲道をくり抜くのに蒸気機関を使用するとなっていたが、当時の日本に蒸気機関は存在していなかったため、水車を動力として大きな旋盤を動かした。このように動力源もないまま一門の鉄製砲を完成させて、長崎砲台に設置し、さらに一年後には36ポンドカノン砲も完成させた。

こうしてでき上がった大砲の信頼性は高く、以後幕府からの大量発注があり、多布施川沿いにもう2基の反射炉を増築、量産体制を整えて、幕府等の海防用に一手供給した。ペリーの黒船来航(1853年)より1年前に、佐賀藩は近代製鉄所の原型を作り上げていたのである。

佐賀藩は大砲だけでなく、造船業を興して蒸気軍艦の製造を行い、さらに科学部門、ガラス製造など重工業部門においても、日本の近代工業黎明期に最も先駆的な役割を果たした。

参考文献
タイトル 著者・編者 発行年
佐賀藩と反射炉長野暹2000
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▲築地石矢鋳立方絵図(築地反射炉絵図)[(財)鍋島報效会提供]
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