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産業技術年表
日本 理化学研究所設立。高峰譲吉の国民科学研究所構想の提唱を受け、渋沢栄一を設立人総代として、文京区駒込に財団法人理化学研究所として設立。国内初の自然科学の総合研究所。
1917年|一般

理化学研究所の設立は、高峰譲吉の提唱である。彼は工部大学校の第1回卒業生で、卒業後イギリスに留学、帰国して農商務省の役人になって欧米視察をし、経済界のリーダーである澁澤栄一ともつきあいがあった。

高峰はアメリカに渡って化学研究を続け、消化酵素ジアスターゼの発見、副腎ホルモン・アドレナリンの分離精製の成功などで、国際的名声を博していた。その彼が澁澤に、「今日までの世界は、機械工業の時代であったが、今後は化学工業の競争の時代になる、ドイツはカイザー・ウィルヘルム協会を、アメリカはロックフェラー研究所やカーネギー研究所を設置した。日本も独創的な化学研究をやるためには、研究所を作る必要がある、力になってほしい」と依頼した。

1913年(大正2)6月、澁澤が上野の精養軒に政財界人を集めた。高峰は一時帰国してその会合で、「2000万円で国民科学研究所を設立しよう。軍艦1隻の値段だが、15年たてば軍艦は廃艦になるが、研究所は世界的な発明をして日本に富をもたらす」という大演説をぶった。それが契機となって設置にむけての検討がはじまり、物理学も含めた施設にすることになり、1915年の第37回帝国議会で「理化学研究所創立」が決定をみた。

そして大隈重信首相が設立協議会を開催し、皇室からの御下賜金、政府補助金、民間寄付金をもとに、1917年(大正6)3月20日、東京文京区駒込に、財団法人理化学研究所が設立された。総裁に伏見宮貞愛親王、副総裁に澁澤、初代所長には元帝大総長の男爵菊池大麓、副所長には高峰と同郷の後輩で高峰に代わってこの構想実現に尽力してきた化学者桜井錠二が就任した。しかし、菊地は就任5ヶ月で急逝、2代目所長には土木工学界の重鎮古市公威が就いたが、4年で病気辞任、1921年(大正10)、3代目所長に帝大教授(砲兵学)の子爵大河内正敏が就任した。大河内は、4半世紀にわたってその経営の任にあたり、理研のカラーを作りあげた。

この研究所では、主任研究員の責任によって自由な研究開発を行うところに特色があった。理研の3太郎と呼ばれた鈴木梅太郎長岡半太郎本多光太郎をはじめ、仁科芳雄ら、日本科学史上にその名をとどめる科学者たちが主任研究員となり、多くの研究業績を世に送り出した。朝永は、のちにこの理研を振り返り、「科学者の自由な楽園」と呼んだ。必要な研究費がふくれあがり、経営は大変であったが、研究成果の商品化にもつとめ、研究により得られた特許などを製品化するための多くの生産会社を作った。

戦後、大河内は公職追放となり、仁科が所長となったが、GHQの指令により株式会社に改組され、仁科が社長に就任した。その後社長は交代したが、1958年(昭和33)、理研は新たに制定された法律で特殊法人に改組され、政府の出資を受けることになった。2003年(平成15)には、独立行政法人理化学研究所となり、初代理事長には、ノーベル化学賞を受けた野依良治が就任、現在に至っている。

参考文献
タイトル 著者・編者 発行年
科学者たちの自由な楽園:栄光の理化学研究所宮田親平1983
理化学研究所六十年の記録理化学研究所1980
理化学研究所八十八年史理化学研究所史編集委員会2005
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▲設立当時の理化学研究所1号館[(独)理化学研究所提供]
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